猛然と庭で鳴く蝉の声に忠兵衛の夏が来たなって思います。何年たっても繰り返し、繰り返し感じてしまいます。
8月1日になると、忠兵衛も猛然と、お盆の行事、戦没者慰霊祭、観光行事の仕事に追われながら、生き生きと仕事をしていたことが思い出されます。間もなく帰って来られるご先祖様の御霊を思う時、日本の夏がこんなふうに自分に取って一番近い大切な人を想いながら静かにお盆行事をしていたのだと気づかされます。
過日 障がい者施設で「税金の無駄」と見下して虐殺するという ナチスと同列の犯罪が起きました。皮肉にも4月に【障害者差別解消法】が施行され、全ての国民が生涯の有無に寄ってわけ隔てられることなく、共生社会の実現を目的とする法律が出来たにも関わらずです。
障害を持って生まれる事
人生の途中で障害を受ける事
障がいの家族を持つ事
人から責められたり、人から迷惑に思われることでしょうか。ましてや、社会の中で、無残にも命を奪われるような理不尽な理由になるのでしょうか。
私が、現在の仕事をするようになってからでも職務上、世の中の理不尽な事、行政の不備なシステム、考え及ばない社会の変化、様々に見てきました。そこで、ハタと今回の事件で気づいた事があります。この事件も含め、この社会現象は 敵味方の考え方をハッキリと打ち出された、郵政解散の小泉内閣の時に私達に斬新な手法で政権が示されました。
あの時、私の夫の忠兵衛は、刺客候補として衆議院議員の選挙を戦わせていただきましたが、ハッキリと社会に敵・味方の思想を打ち出し、「〇」か「×」かで判定して行くしかない選択肢の出し方が新鮮に映り、そのまま選択肢の手法として定着したように思います。
あれから何年も同様の手法で示され、大阪府の橋下市政でも、東京都知事選でも同様の民意が動いています。私は、この考え方、手法には否定的です。政治にいくら無関心でも、政治の果たす役割や影響は無限にあると思います。
議会でも何度か口にしてきましたが、弱者と呼ぶべき方々や精神・体の弱った方々を風の当たらない真ん中において、周りを元気な人や、智恵・経験の有る者、屈強な人間が守り、一番後ろに指示を出せる人が立つという社会を作るべきではないかと主張してきました。
もう何年も、この国は 自分と他人の間に深くて長い境界線を作り、なおかつ他人の事には構わない、口を出さない、そして知らないふりをする、そんな流れが出来た中で、政治だけは強烈に違う流れを形作り、民意を動かしていきます。
そんな私達大人の作ってきた社会の流れを、ここ何年も 子ども達や若者は見て、感じてきています。なのに、国も地方も 少子化に向けて、超高齢化に向けて、地方は地方で、地域は地域で繋がって、自分達の事は自分たちでやる様にして下さい!と矛盾した政策を打ち出し、矛盾した社会を作り出してきています。
その矛盾した状況の中で、一番弱い方々に刃が向けられてしまったのは、社会の構成人として、責任の一端さえ感じています。
虚しくなる事、傷つく社会の在り方、見るたび、聞くたびに心は痛みますが、それでも
自分が果たしていかなければならない責任に心を奮い立たせて、犠牲者の方々には哀悼の意を捧げたいと思います。
奈良市議会議員
鍵田美智子