1945年8月6日、あれから70年の歳月が経ち、私が、政治の仕事をさせて頂くきっかけとなった亡き夫、忠兵衛の誕生日も8月6日でした。
夫から幼少時には、8月1日になると自宅道場で、父である鍵田忠三郎さんと座禅の弟子の方々で戦没者供養の為、般若心経の読み上げを行い、15日までは精進潔斎を続けられていたと聞いておりました。
忠兵衛も義父に習い、8月1日になると大文字供養をする奈良の東山に登り、慰霊祭が行われる15日までは、心の中で慰霊のお勤めを続けておりました。
また、大文字保存会の会長でもありましたので、南都六カ寺のお寺様にお願いをして 「大文字のうちわ」の揮毫をお願いすることも大切な仕事でありました。
鍵田家の8月は特別な意味を持った時間でした。
鍵田が亡くなって、今年で4年になります。
自民党の公認も頂いていた議員でありましたので、今の政治の世界や空気をどの様に感じているのか、きっと食卓を囲みながら主人と話をしていたに違いありません。
先頃、自民党選出の議員が学生団体の発言や行動を「自分中心、極端な利己的考え」とした発言がありました。
【自分中心】【利己的考え】
この言葉の意味を理解するなら、戦後の日本が突き進んできた今の状況は、この言葉が蔓延する社会を作り出してきたのではないでしょうか? そして、他人の事を見て見ないふりをする日本が多少なりとも出来上がってきてしまったのではないでしょうか? この様な国を作り出すために、多くの方々が命を投げ出し、屍となり、礎になってくださったのでしょうか…
集団的自衛権の必要性を戸締りになぞらえて必要性を説かれるこの国の首相に対し、 学生たちが素直に発言し、行動を起こす自由を国会議員が【自分中心、利己的】と非難し、 自身の民主主義や平和に対する考えを示されました。 この姿が、今の日本の姿そのもののような気がしています。 自分に関係がなければ知らないふりをする。 知っていても、自分に害がなければそのままにする。 一人一人を見れば、そうではないのに全体を見れば、この風潮が蔓延している。 この責任は、政治にも社会にもあるのに そして私達一人一人にもきっとあるはずなのに そのことを認めようとしていない自分がいる、それが今のこの国の姿です。
今、社会保障制度は大きな転換期を迎えています。
それは、少子化、高齢化の問題で転換せざるをえないからです。 現実は先に述べたような他人に対する見て見ないふりをする風潮があるにも関わらず、 国も地方自治体も 行政サービスは、 「これからの時代は人もお金もありませんから、自分たちの事は自分たちでするように考えて行ってください。」と方針を出されています。
大きく言えば、それが【地方創生】であり【地域包括ケア】であり、【地域コミュニティー】として制度変更していく事が決まっています。
この国の未来を私たちが今生きる事で担っている限り、出来る事を果たしていく事も私達一人一人が背負っている責任の一つではないかと感じています。
そして、出来る事なら 憲法の前文を読み返してみてください。
そこに日本人の心があります。
他国に押し付けられたものでもない、戦争を経験し、多数の犠牲を払って 日本人の決意を示した日本人の心があります。
現行憲法前文抜粋
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸外国との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる事のないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは、人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
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